永遠の定番として老若男女から愛され続けているスニーカーブランド「コンバース(CONVERSE)」。
しかし、そんなコンバースが経営破綻をきっかけに世界と日本で2種類に分かれてしまったこと、そして米国製のコンバースを日本に持ち込むことが禁じられていることはあまり知られていません。
今回の記事ではこのコンバース問題にフォーカスし、経営破綻の原因や、現在の状況をどこよりもわかりやすく解説。
なお、本記事ではコンバースの黄金期から経営破綻までの約30年にフォーカス。
創業期〜黎明期の歴史についてはこちらからご覧ください。
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目次
- ■コンバース黄金期
- ■黄金期の終焉とアディダスの台頭
- ■ナイキのエアジョーダンがバスケ業界を変える
- ■リーボックのザ・ポンプ
- ■新作モデルの投入が遅れたコンバース
- ■破産をきっかけに日本と米国で2つのコンバースが爆誕
- ■伊藤忠は米コンバースを日本から駆逐
- ■さいごに
■コンバース黄金期
コンバースが時代を築いた要因は、競技黎明期からバスケットボールにフォーカスしていたから。
創業初期、会社の近くにあったスプリングフィールド大学にて生まれた競技であるバスケットボールに目をつけたコンバースは、多額の投資を行い1917年にキャンバス・オールスターを発表します。
以降、オリンピック正式種目への追加やNBAの繁栄など、バスケ業界の成長に寄り添う様に、約50年以上も選手たちの足元は変わらずオールスターが輝くこととなります。
こうして、オールスター一辺倒の戦略で50年近く戦ってきたコンバース。
しかし、1970年代に入ると競合他社が次々と新作バスケットボールシューズを発表。ここからコンバースは凋落の一途を辿ってゆくこととなります。
■黄金期の終焉とアディダスの台頭
オールスター誕生から50年以上が経ち、まず業界に殴り込みをかけたのはアディダス(adidas)。
1969年にリリースされたアディダスの名作、スーパースターは、それまでコンバースをはじめとするバスケットボールシューズの定番だったキャンバス地ではなく、高級感を持ったレザーを使用。
シンプルながらも美しい斜め3本線のラグジュアリーさも相まって注目を集めます。
これまでコンバース一辺倒だったバスケットボールコートにアディダスのストライプが目立つようになり、その人気は1974年に爆発。
コンバース社のお膝元であるマサチューセッツ州のプロバスケットボールチーム、ボストンセルティックスが優勝を果たすと、ファイナルMVPに輝いたジョン・ハブリチェックや名センター、デイブ・コーウェンスなどがアディダスを着用していたことで、スーパースターの注文が殺到することとなります。
また、バスケシーンのみならず、アディダスのスーパースターはストリートシーンも席巻。
Run-D.M.Cをはじめとするヒップホップアーティストが好んでスーパースターを着用したことで、彼らのファンはその姿を真似るべくスーパースターを購入。
Run-D.M.Cのライブでメンバーが「スーパースターを見せてくれ」と呼びかけると、何万もの聴衆が自らのシューズを高々と掲げた逸話は、当時アディダスがメインストリームに立っていたことを証明するエピソードだと言えるでしょう。
■ナイキのエアジョーダンがバスケ業界を変える
ナイキ(NIKE)も1980年代にはバスケットボール業界に参入。
1982年にリリースされたエアフォース1は今ではナイキの定番となったエアクッションシステムを最初に導入した1足。
その履き心地の良さは旧来のバルカナイズド製法で作られたゴムソールのシューズとは一線を画すものでした。
また、バスケットボール界のNo.1レジェンド、マイケル・ジョーダンは1984年6月にNBAのドラフトで「シカゴ・ブルズ」に入団。
ナイキと契約し翌年リリースしたシグネチャーシューズエアジョーダンが大ヒット。
今日まで続くナイキ人気の礎となります。
なお、マイケルは大学リーグ時代にコンバース、1984年のロサンゼルスオリンピックではアディダスのシューズを使ってプレイ。
NBA入りの際には当初コンバースやアディダスとの契約を強く検討していたこと考えると、歴史の数奇さを感じさせます。
■リーボックのザ・ポンプ
足を優しく包み込むフィット感が強みだったのがリーボック(Reebok)。
1980年代のアメリカのエアロビクスブームを捉えた「フリースタイル」や、フィットネスシューズとして絶大な人気を誇った「ワークアウト」の成功を元に、80年代のスポーツ業界における売り上げNo.1の企業として名を馳せていました。
そんなリーボックが1989年にリリースしたバスケットボールシューズザ・ポンプは、アッパー内部の空気室に適量の空気を注入することでシューズと足をピッタリとフィットさせることに成功。
近未来的な機構と抜群のフィット感は大きな話題を呼び、良好なセールスを記録しました。
■新作モデルの投入が遅れたコンバース
こうした各社の新作投入に対抗すべく、コンバースもバスケットボールシューズウエポンを1986年に市場に投入。
しかし、時すでに遅く各スポーツメーカーのバスケットボール業界への参入に押し出される様に、コンバースのバスケットボールシューズはシェアを無くしてゆき、NBAの指定ブランドからも外されてしまいます。
■破産をきっかけに日本と米国で2つのコンバースが爆誕
その後も変わらずオールスター中心の戦略を取り続けたコンバースでしたが、2001年ついに連邦倒産法第11章(日本で言う民事再生法)を申請し破産。
伊藤忠商事が資本参加し日本における「コンバース」の商標を同社が取得し、ライセンス料を受け取りながら再建の道を探ることを選んだのです。
しかし、破産からわずか2年後の2003年、コンバース社は3億1500万ドルでナイキ社に買収されます。
ナイキによって買収されたコンバースは、失っていた市場競争力をナイキの持つ販路を元に取り戻してゆくと共に、歴史あるコンバースのチャックテイラーやワンスターのソール内部にナイキのエアクッション技術を取り入れるなどの数々の施策を実施。今日でもその業績を伸ばしています。
一方、ナイキの買収にもかかわらず、日本のコンバースは終了することなく存続。
これによりナイキ傘下の米コンバースと伊藤忠傘下の日本企画コンバースの2種類が両立するという謎の事態が発生することとなったのです。
■伊藤忠は米コンバースを日本から駆逐
その後、伊藤忠商事は自社が作る日本規格コンバースを守るために、国内における米国企画コンバースを全て駆逐。
米国規格のコンバースの国内販売を巡って訴訟も起こし、それに勝利したことで米国規格を国内に持ち込むことを強く制限できる体制を作り上げました。
これにより現在、国外から日本に入国する際に米国製のコンバースを所有していることが発覚すると、税関で没収される可能性があります。
■さいごに
今回の記事では、コンバースの凋落と、米コンバースの国内持ち込みについて解説致しました。
変わらないことで繁栄し、そして破綻したコンバース。
しかし、破綻してもなお変わらなかったコンバースが日本においてだけは若干変わってしまったことは中々の皮肉だと言えるでしょう。
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