バスケットボールの神様、マイケル・ジョーダンを獲得し、スニーカーの名作、エアジョーダンを生み出したナイキ。
しかし、契約から2年を数えるころ、マイケル・ジョーダンはナイキに不満を抱きアディダスへの移籍を検討していたことはあまり知られていません。
ナイキは史上最大のピンチをいかにして回避したのでしょうか?
今回の記事では、マイケル・ジョーダンをナイキに留まらせた、ある天才デザイナーにフォーカス。
ぜひ最後までご覧ください。
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目次
- ■マイケル・ジョーダンに社運を賭けたナイキ
- ■リーボックの台頭と24時間デザインコンテストの開催
- ■エアマックスの生みの親、ティンカー・ハットフィールド
- ■マイケルはエアジョーダンが嫌いだった?!
- ■エアジョーダン3に魅了されたマイケル・ジョーダン
- ■さいごに
■マイケル・ジョーダンに社運を賭けたナイキ
大学バスケットボール界でも注目を集め、1985年のNBAデビューに向けてアディダス、コンバース、そしてナイキがスニーカー契約を巡って争っていたマイケル・ジョーダン。
マイケル本人もアディダス好きで知られており、当初ナイキは眼中にもなかったそう。
ナイキ社との面会すら渋るマイケルに対し、ナイキはマイケル・ジョーダン専用のシグネチャーシューズ、アディダスの提示額と同じ50万ドル契約、そしてスポーツ界では異例となる販売足数に応じたレベニューシェア契約を提案。
かくしてマイケルはナイキとの契約を承諾し、歴史的名作スニーカーエアジョーダン1が誕生したのです。
■リーボックの台頭と24時間デザインコンテストの開催
出典:pinterest
1980年代、アディダスやコンバースとしのぎを削っていたナイキは、リーボックという謎のブランドの台頭に慌てふためきます。
1979年にアメリカでのランニングシューズ販売を始めたばかりのリーボックは、1982年 にエアロビクスシューズ「フリースタイル」をリリース
出典:pen-online
全米のエアロビクスブームの盛り上がりに呼応するように大人気を博したリーボックは、86年にはナイキや他のメーカーを抜き去り全米No.1のスポーツブランドにまで成長します。
困ったナイキ社は新たなスタープロダクトを開発すべく、社内で「24時間デザインコンテスト」と呼ばれるスニーカーのデザインコンテストを開催。
多くの応募者がこれまでのプロダクトの延長線上にあるデザインを提案する中、シューズ部門ではなく展示デザインを担当する1人の社員がコンテストで優勝します。
出典:espn
スクーター乗りに向けたスニーカーを提案しコンテスト優勝を勝ち取ったティンカー・ハットフィールドは、2日後にシューズデザイナー部門に異動。
のちにナイキの救世主となるのです。
■エアマックスの生みの親、ティンカー・ハットフィールド
出典:nicekicks
棒高跳びをはじめとする陸上競技に長け、オレゴン大学にアスリート奨学金を使って入学したティンカー・ハットフィールド。
オレゴン大学陸上部に入ったティンカーを待っていたのは、伝説的ヘッドコーチにしてナイキの共同創業者であるビル・バウワーマンでした。
ティンカー・ハットフィールドは、当時すでにナイキ コルテッツをはじめとするフットウェアのデザイナーとしても知られていたビルのために、スパイクデザインの作画などを手伝います。
ティンカー・ハットフィールドが棒高跳びの着地失敗によって右足首を骨折した際も、ビル・バウワーマンがリハビリ用のスパイクを製作。
怪我によってアスリートとしての夢を諦め、建築学を学ぶティンカーを支援しナイキに招き入れます。
こうしてナイキに入社し、前述の24時間コンテストをきっかけにシューズデザイナーとなったティンカー・ハットフィールド。
建築学の経験を活かし、パリのポンピドゥセンターの外観にインスパイアされたエアマックス1を1987年に生み出します。
ナイキのエアクッションをあえて露出させた、透明なミッドソールは、のちのスニーカーデザインに大きな影響を与えたといって良いでしょう。
出典:dype
■マイケルはエアジョーダンが嫌いだった?!
1985年にNBAデビューを果たしたマイケル・ジョーダンは、どうやらエアジョーダン1や翌年リリースされたエアジョーダン2があまり気に入っていなかったよう。
驚くべきことに、当時はナイキとの契約を解消しアディダスへの移籍も検討していたとされています。
売上でリーボックに追い抜かれ、バスケ界の新星マイケル・ジョーダンをも失う危機にあったナイキは、マイケルの心を繋ぎ止めるべく次なるエアジョーダン3に最後の望みを賭けます。
ジョーダン1(1985年)、ジョーダン2(1986年)に続いて、1987年リリースを目指していたジョーダン3は半年以上も製作スケジュールに遅れが出て、同年のリリースを断念。
ここでクリエイティブを一新すべく、エアマックスという画期的なデザインを生み出したティンカー・ハットフィールドに白羽の矢が立ちます。
■エアジョーダン3に魅了されたマイケル・ジョーダン
出典:atmos-tokyo
急ピッチで進められたエアジョーダン3の試作品が完成すると、デザインを披露すべくフィル・ナイト会長やマイケル・ジョーダンの両親らを含めて会議が設けられます。
しかし、肝心のマイケル本人はゴルフのために会議をすっぽかし、皆が待つなか彼が会議室に姿を現したのは4時間も後のことだったそうです。
入室するなりマイケルが不機嫌そうに言い放った一言目が「それで?」だったことを踏まえると、心の中ではすでにナイキからの離脱を決めていたのかもしれません。
出典:reliuredart
しかし、ティンカー・ハットフィールドが試作品を見せるとマイケルの態度が一変。
お披露目されたエアジョーダン3では、当時のバッシュの常識だったハイカットではなく、あえてミッドカットを提案。
のちの「ジョーダン」の象徴となるジャンプマンロゴが初めて搭載され、手袋のように柔らかい本革が足を優しく包み込むことをアピールしました。
加えて何よりマイケルが「魅了された」のは、シューズのアッパーに差し込まれたゾウ柄だったそう。
かくして、マイケルはナイキに留まることを決意し、1988年に誕生したエアジョーダン3を履いてスラムダンクコンテストで優勝。
以降、マイケル・ジョーダンはティンカー・ハットフィールドがデザインしたエアジョーダンを引退まで履き続けることとなるのです。
■さいごに
ティンカー・ハットフィールドなくしては、ナイキの名作シリーズ「エアジョーダン」は、たった2作で終わっていたことでしょう。
オレゴン大学でティンカーがナイキ創業者と出会ったことや、彼がデザインコンテストに参加したことなど、幾つもの偶然の重なりによって今のナイキやジョーダンブランドが形作られていることは、改めて歴史の数奇さを感じます。
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