ナイキ最強のフランチャイズ、エアジョーダンシリーズ。
バスケットボールの神様マイケル・ジョーダンのデビューから、毎年ナンバリングと共に製作されてきたこのバスケットボールシューズ。
エアジョーダンを履いたマイケルが試合で活躍することで飛ぶように売れたこのシリーズですが、彼が一度目の引退をしていた時期に発売されたエアジョーダンをあなたはご存知でしょうか?
今回の記事では、ついぞ試合で履かれることの無かったエアジョーダン9と、復帰戦で履いたエアジョーダン10にフォーカス。
この頃のマイケルをめぐる数々の出来事と共に振り返ります。
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目次
- ■マイケル・ジョーダンの活躍とナイキ
- ■父の死とマイケルの引退
- ■全世界に衝撃を与えたマイケルの野球転向
- ■ストライキに荒れる野球界
- ■エアジョーダン10と共にマイケルはバスケ界に復帰
- ■さいごに
■マイケル・ジョーダンの活躍とナイキ
1984年、社運をかけた交渉が身を結び、晴れてマイケル・ジョーダンとの契約に成功したナイキ。
1985年に初登場したナイキのエアジョーダンシリーズはマイケルの活躍と共に大人気となり、バスケ部門を閉鎖寸前だったナイキはアディダスやコンバースを押しのけてNo.1バッシュブランドとなったのです。
1991年から93年にかけて、マイケル擁するシカゴ・ブルズはNBAでスリーピート(3連覇)を達成。
1966年のセルティックス以降どのチームも成し遂げることの無かった偉業にマイケルの人気は絶頂に達し、この時期にリリースされたエアジョーダン6、7、8は飛ぶように売れていたそうです。
■父の死とマイケルの引退
出典:kcra
1993年7月23日、シカゴ・ブルズのスリーピート達成の1ヶ月後に、ジョーダン家に悲劇が訪れます。
ゴルフ帰りだったマイケルの父ジェームズ・ジョーダンは運転に疲れて路肩にレクサスを止め、仮眠を取っていたところを車両強盗に襲われます。
10代の2人の青年、ラリー・マーティン・デメリーとダニエル・アンドレ・グリーンはジェームズ・ジョーダンを無惨に射殺すると、彼の自動車やマイケルから贈られたNBAチャンピオンリングなどを強奪。
出典:ebay
自宅に戻らず、連絡のつかなくなったジェームズの遺体が発見されたのは、10日以上経った8月3日のことでした。
いつも自身の試合に連れ添ってくれていた父の死から3ヶ月後、マイケルは引退を発表。
引退後に発売されたエアジョーダン9は、バスケコートでマイケルが履くことなかった最初の1足となりました。
出典:sneakernews
■全世界に衝撃を与えたマイケルの野球転向
引退の翌年、スポーツ界はマイケルがメジャーリーグを目指して野球選手に転向するという衝撃のニュースに震撼します。
高校生まで野球に親しんでいたマイケル曰く「父の夢は自分をメジャーリーガーにすること」だったとのこと。
シカゴ・ブルズのオーナーであるジェリー・ラインスドルフが野球チームホワイトソックスも所有していたこともあり、94年2月にマイケルは同チームと契約。
ホワイトソックス傘下のAAチームバロンズ、次いで翌年にはスコーピオンズに所属。
これは今で言えば大谷翔平選手が人気絶頂のまま野球を引退してNBAバスケでレギュラーを目指すようなもの。
入団直後は「どんな球でもバットを振ってしまう」と酷評されたマイケルでしたが、次第に打率は上昇。
現在では「そのまま行けば、マイケルはメジャーに上がれただろう」と評価されています。
出典:nikkansports
この頃、マイケルはエアジョーダン9に野球用のスパイクをつけて着用。
バスケットボールコートでは履かれることのなかったこの1足は、野球場の土を踏み締めることとなりました。
■ストライキに荒れる野球界
出典:x
身体つきを野球仕様に造り変え、着々と戦績を伸ばしていったマイケル・ジョーダン。
しかし、1994年に起きたメジャーリーグでの選手ストライキが、彼の運命を再びバスケの道へと引き戻します。
当時のアメリカの野球界では選手会とオーナー側が収益分配をめぐって対立しており、交渉が決裂した1994年8月12日、MLB史上最長となる232日間の選手ストライキが始まります。
ワールドシリーズの中止というMLB史上前代未聞の結末を引き起こしたこのストライキをなんとか終わらせようと、MLB執行委員会は翌1995年1月、マイナーリーガーや引退済みの元MLB選手を招聘してシーズンを開幕させることを目論みます。
出典:12up
スト決行中の選手会から見れば「裏切り行為」「スト破り」とも取れるこの代替選手起用。
知名度抜群のマイケル・ジョーダンにも出場要請があったもののマイケルはこれを拒否。
代替選手としての要請に応じない他の選手と同様に、MLB首脳陣から練習施設の使用禁止を言い渡されたマイケルはホワイトソックスのキャンプを後にします。
そんな中、バスケ時代のチームメイトに誘われたマイケルは久々にブルズの練習場に来訪。
これを見逃すはずもない各メディアは、「マイケルのNBA復帰か」と盛大に騒ぎ立てました。
3月10日にはシカゴ・ブルズの元相棒スコッティ・ピッペンが、ベンチにて履いているエアジョーダン10のジャンプマンロゴを見せつけながら、指で「戻ってこいよ」とアピール。
彼の見せつけるエアジョーダン10の足裏には、それぞれのソールに彼の9つの功績、すなわち85年の新人王や91〜93年のMVPと優勝などが掘り込まれ、10本目のラインには「BEYOND(これから)」の文字が。
これに応えるようにマイケルは3月18日、“I’M BACK”というメッセージと共にバスケ界に電撃復帰を果たしたのです。
■エアジョーダン10と共にマイケルはバスケ界に復帰
出典:indystar
1995年3月19日、21ヶ月ぶりにコートに降り立ったマイケルは、野球転向していた時と同じ、45番を背負って出場。
相棒スコッティ・ピッペンと共にエアジョーダン10を着用し話題を集めます。
復帰戦、しかも父親がそばにいない状況ではじめて試合に臨むマイケルは相当に緊張していたのか、プレイは精彩を欠き、おまけにバスケショーツは後ろ前という状態。
その後もなかなか調子が出なかったマイケルでしたが、罰金覚悟で背番号を23番に戻したイースタンカンファレンスの準決勝第2戦で奮起。
38得点をマークし、ブルズを勝利に導きました。
この年、身体を野球からバスケ仕様に少しずつ戻していったマイケル・ジョーダン。
翌1996年には最多72勝を挙げ、以降98年にかけて再びシカゴ・ブルズを3年連続優勝に導いたのです。
■さいごに
今回の記事では、マイケルジョーダンの1度目の引退と、当時彼の足元にあったエアジョーダン9、10についてご紹介しました。
マイケルのバスケ引退によって野球グラウンドを踏むこととなったエアジョーダン9。そしてピッペンと共に再びバスケコートを踏み締めたエアジョーダン10。
父の死や引退、野球転向にストライキ、そして復帰と、スポーツ界を騒がせた日々の中心にいたこの2足を今一度見つめ直してみるのも面白いかもしれません。
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