スニーカー業界に疎い人や、1990年代後半をリアルタイムに体験していない人たちにもよく知られる事件といえば、「エアマックス狩り」。
半ば伝説的な出来事として語り継がれるこのエアマックス狩りは、ナイキが1995年にリリースした名作「エアマックス95」をめぐって、そのブームが沈静化する1998年ごろまで続いた狂想曲でした。
今回の記事ではこのエアマックス狩りにフォーカスし、事件の中心となったエアマックス95の誕生から紐解いてまいります。
■エアマックス誕生からエアマックス95まで
エアジョーダン3以降、数々の名作ジョーダンをデザインしてきたナイキのティンカー・ハットフィールド。
彼は新作スニーカーの構想にあたってパリの総合文化施設「ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター」からインスパイア。
建物の壁面にガラスチューブのように繋がれた外付けエスカレーターを見て、スニーカーのソール部分に内蔵するエア部分を透明化する「ビジブルエア」を着想しました。
※ポンピドゥー・センター
出典:media.thisisgallery.
こうして生まれたのが1987年登場のエアマックス1。
まさしくポンピドゥー・センターのごときビジブルエアとビビッドな赤が映える1足となりました。
出典:fashionsnap
以降、エアマックス90(1990年発売)やエアマックス180(1991年発売)など、ビジブルエアを継承しながら後続モデルが作られ続けてきたエアマックスシリーズですが、1995年にデザイナーがセルジオ・ロザーノとなって作られたエアマックス95は、世界中にナイキのスニーカーの魅力と勇名を轟かせることになりました。
■エアマックス95はいかにして生まれたのか
エアマックス95をデザインしたセルジオ・ロザーノは1990年ナイキ入社。
テニス部門やACG部門に所属していたロザーノにビッグチャンスが回ってきたのは入社4年目のことでした。
「ランニングに新しい風を」というナイキ社の意向のもと、ランニング部門に異動し、新しいシューズのデザインをすることになったロザーノ。
革新的なデザインアイディアが会議でも出てこず頭を悩ませていたロザーノが閃いたのは、ACG時代に彼が描いたあるスケッチでした。
会社の窓から眺めていた木に着想を得てスケッチした絵は、グランドキャニオンの地層のごとく筋のあるスケッチ。
描いた当時はすぐにデザインに生かせるものではなかった絵でしたが、ロザーノはそのスケッチを机の中にずっと保管していたのです。
地層から筋、筋から人体へとイメージは深化し、アイディアは人体解剖学へと発展します。
セルジオ・セザーロは筋肉や肋骨をイメージしてついにはエアマックス95をデザイン。
当時としては珍しい黒いソールと、そこからグラデーションで色がついてゆくカラーリングは、雨の多い地域のランニングでも汚れが目立ちにくいデザイン。
そして、このグラデーションを邪魔しないよう、ナイキのトレードマークであるスウッシュはあえてヒール部分に小さく設置。
こうして、ランニングシューズながらどこかアウトドアな雰囲気も纏った独特な1足が完成したのです。
■当時の日本のスニーカー事情
当時の日本はといえば、ストリート界のカリスマ藤原ヒロシ氏の影響もあり、原宿近辺を中心にスニーカー界はビンテージを含めて大きな盛り上がりを見せていました。
それまでスポーツメーカー達はアスリート向けに新作の研究開発に没頭し、過去のモデルの復刻に後ろ向きな姿勢を見せていましたが、ストリート・サブカルシーンの盛り上がりを見るにつれて態度を軟化。
最新技術を詰め込んだアスリート向けのスポーツシューズと、旧作の復刻やカルチャー色の強いファン向けのスニーカーとの2本柱でシューズをリリースする時代が到来したのがこの時期です。
エアジョーダンシリーズやアディダスのスーパースターなどのスニーカーが人気を集め、急激な円高もありこの頃から海外にスニーカーを買い付けに飛ぶバイヤーや個人が数多く登場するようになりました。
この時期の円高ぶりは凄まじく、1994年に1ドルが100円を割ったことが大ニュースになったかと思えば、翌1995年4月には1ドル79円まで下落します。
そんな時期に登場したのがエアマックス95でした。
出典:ameblo
■日本での人気爆発とエアマックス狩りの登場
エアマックス95が発表された当初は、日本国内への輸入もごくわずかにとどまっていました。
原因はまず「芋虫」などと揶揄されたそのデザインの奇抜さ。
そして、当時のランニングシューズとしては高額な1万5,000円という価格帯が、バイヤーたちを躊躇させました。
結果、発売当初は多くのスニーカーショップがエアマックス95の仕入れを控えめに。
これを原因としてエアマックス95の需要に対する供給の少なさに拍車がかかりました。
そして、いざエアマックス95がリリースされると、原宿系を中心とした高感度な若者たちはこのスニーカーに即座に反応。
山男フットギアやハンドレッドファーストといったスニーカーショップでは発売日からすぐに店頭から在庫が消えるといった現象がおこりました。
発売前は多くのショップが売れ行きに懐疑的だったエアマックス95は、店舗によっては入荷なし、買い付けをしたショップも多くて200足程度という状況。
日本における予想外のエアマックス95 人気は、ショップだけでなくナイキすらも予想外の出来事だったのです。
1995年の11月には第2弾としてブルーグラデが発売。
そしてその次に広末涼子氏が1996年のドコモのポケベルのCMでウィメンズのグリーンモデルを着用すると、広末モデルと呼ばれ人気を博しました。
エアマックス95の存在が広く世間に知れ渡るようになったのもここから。
当時のNo.1スター広末涼子と、当時の若者なら誰もが欲しがったポケベルというガジェット。
そこに謎の激レアスニーカーが重なったことで大きく注目を集めたのです。
出典:twit5er
ブルーグラデの熱冷めやらぬまま年末にはアメリカの大手靴チェーン「フットロッカー」の別注モデル「ネイビーグラデ」が登場。
そして、翌1996年1月には、週刊朝日の表紙で木村拓哉氏が発売前のエアマックス95の新色「赤グラデ」をアピールする写真が掲載され、エアマックス95フィーバーはさらに加熱しました。
出典:aucfan
また、96年のSMAPの名曲、「SHAKE」のPVでも木村拓哉氏はエアマックス95の「イエローグラデ」を着用。
当時のファッションアイコンであった木村氏が入れ込むシューズとしての注目も少なからずあったと言えるでしょう。
出典:xn
この頃には国内正規分のエアマックス95は完全にショップから消え、一攫千金をもくろむ個人バイヤーやショップスタッフが海外から買い付けた並行輸入品が高値で取引されるようになります。
特に、このエアマックス95のブームは日本限定で起こっていた特異な現象だったこともあり、嗅覚鋭いバイヤーはブーム初期には海外に飛び、定価近い価格で現地のエアマックス95を買い漁っていたと言われています。
こうした状況の後押しもあり、エアマックス95のリセールバリューは高騰の一途をたどります。
その結果、居酒屋や銭湯の靴箱に入れれば必ず盗まれ、治安の悪い地域ならば履いている靴を強奪されるまでに至ったのです。
なお、エアマックス95の爆発的な人気によって当然大量のフェイク品も誕生。
1996年、ナイキジャパンは会社として初めてフェイク品販売業者を告訴したことも話題を呼びました。
■当時の状況を伝える文献やメディアなど
・遊☆戯☆王
1997年に発売されたコミックス第2巻に収録された「毒の男」では、高騰したレアスニーカー「エアマッスル」を相場の半額である5万円で入手した城之内が、「エアマッスル狩り」に遭ってスニーカーを奪われる描写があります。
出典:高橋和希 遊☆戯☆王 コミックス2巻より
・こちら葛飾区亀有公園前派出所
1997年6月発売のコミックス第102巻、そして8月発売の103巻では、主人公両津勘吉がブームによって高騰するスニーカーの買い付けや、自身がプロデュースする新モデル「エア・ワラジ」の発売などを行います。
出典:秋本治 こちら葛飾区亀有公園前派出所 コミックス102巻より
出典:秋本治 こちら葛飾区亀有公園前派出所 コミックス103巻より
・電波少年
当時日本テレビ系列で毎週日曜の夜に放送されていたバラエティ番組「進め!電波少年」では、エアマックスを題材にした企画「エアマックス狩りをやめさせたい!」を放送。
パンツ一丁にエアマックスを履いて池袋西口公園へ赴いた松村邦洋は、あっという間に大勢のヤンキーに囲まれ、暴行を受けるとともにエアマックスを奪われる様が放映されました。
出典:twit5er
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■さいごに
エアマックス狩りが起きてしまった要因はひとえに、世の中に「エアマックス95の価値」が広まってしまったことに起因するものだと言えるでしょう。
当時の人々はみな、その熱狂ゆえスニーカー好きでなくともエアマックス95の姿形を理解していました。
海外まで買い付けに出かける個人バイヤーが急増したほどの熱狂の中、街中でエアマックス95を見かけた人はきっと、誰もが邪な思いが一度は頭を掠めたことでしょう。
銭湯の靴箱をふと覗いたら金ののべ棒が置いてあったとき、誘惑にかられてしまう人が少なくないのと同じように、その当時のエアマックス95には、人の倫理観を容易に飛び越えてしまう魔力を持っていました。
翻って現在、コロナ禍における金銭的不安とメルカリや他のリセールサイトの普及から、誰もが転売ヤーになりうる時代として1990年代の焼き直しのような状況が作り出されています。
現代におけるエアマックス狩りが起こらないことを願いつつ、我々は今後もストリートファッションを楽しんで行きたいものです。